その昔、「芸能人は歯が命」というテレビコマーシャルがあったが、芸能人でなくとも、歯は健やかに生きていくのに不可欠である。ましてや、人生100年時代といわれる今、可能なかぎり末永く自前の歯を残したいもの。この「歯の存続」のカギを握るのが唾液である。先月、日本私立歯科大学協会が開催したプレスセミナーに登壇した渡部 茂氏(明海大学保健医療学部教授)は、1995年に発表した唾液をめぐる論文が、今年、24年の時を経てイグ・ノーベル賞の栄誉に輝いた。当時5歳だった自身の息子らに食物を含ませては吐き出させ、地道に唾液を採取した実験は一見、滑稽にも思われるが、口腔ケアの重要性が叫ばれる今この時代から翻って見てみれば、いかに慧眼だったかがわかる。
真面目な研究面白がられ、「意外」
約30年前、渡部氏が唾液に着目した当時は、“むし歯の洪水”といわれるほど子供のむし歯は溢れかえっていて、歯科医師らはもっぱらその治療に努めていた。一方で、口腔内の健康維持において重要なカギを握るのが唾液で、唾液が歯を酸から守ることでむし歯を防ぐ役割が当時から明らかになっていた。
そこで渡部氏は、「5歳児が1日に分泌する唾液量の測定」という直球の研究テーマを設定。5歳の男女児それぞれ15人ずつ、計30人に協力してもらい、睡眠時と覚醒時、そして飲食時の3パターンでそれぞれの平均唾液分泌量を求めた。このうち睡眠時については、唾液が分泌されないことが別の研究ですでに明らかになっていたため(Lichter, 1975)、渡部氏は覚醒時と飲食中に分泌される唾液の分泌速度を測定し、そこから1日の総分泌量を推定。その結果、5歳児が1日に分泌する唾液の量は、500mLペットボトル約1本分であることがわかった。
イグ・ノーベル賞の授賞式では、被験者として父親に協力し、すっかり大人になった息子らも駆け付け、ステージ上で当時の唾液採取の様子を再現して見せ、会場を大いに沸かせたという。ただ渡部氏は、「真面目に行った科学的研究で、面白がられたことが意外」と語る。なぜなら、唾液の分泌量を知ること以上に、その唾液が持つ力にこそ魅力を感じているからだ。
歯磨きは「食後30分経ってから」は今や昔
唾液は、飲食物などの刺激によって一度に大量に分泌され、糖の分解や咀嚼・嚥下のサポート、酸の中和、そして酸で失われたカルシウム分の再石灰化を促すなどの役割を担っている。また、先述の渡部氏の研究でも明らかなように、唾液は食事以外の時(安静時)にも相当量が分泌されていて、その仕組みはコーヒーを淹れるサイフォンのように、口内に一定量溜まると無意識に嚥下され、再び溜まり始めるということを繰り返している。
分泌から嚥下までの間、唾液は厚さ約0.1mmの薄いフィルム状になって口内を流れ、その途中で汚れを落とし、酸を中和することで、むし歯や歯周病、口臭などさまざまなトラブルから口の健康を守っている(唾液クリアランス)。唾液の分泌速度や量によって個人差があるが、ものを食べて約2分で唾液中の糖濃度が2分の1になり、約30分でクリアランスがほぼ完了するという。ただ、口腔内の部位によって唾液の到達量や唾液クリアランスの働きは大きく異なる。唾液の到達量は主に下顎前歯部舌側で多く、上顎前歯部唇面で少ない。つまり、上の前歯は唾液クリアランスが弱いので汚れやすく、よりむし歯になりやすいので、歯磨きなどケアの際には注意が必要だ。
一方、酸の中和作用については、唾液の緩衝能(pHを一定に保とうとする力)が知られる。たとえば、pH3のオレンジジュースを飲んだ場合、いったんpH3近くまで下がった口内は、唾液の多い下顎前歯部舌側ではわずか2~3秒で元の7近くまで戻るが、唾液の少ない上顎前歯部唇側では、30分経過しても元のpHまでは回復しないという。
ただ、渡部氏によると、通常の飲食では歯の脱灰(表面のエナメル質が溶け出す現象)は起こりえないという。前述の通り、口腔内に瞬間的に多量に分泌された唾液によって、歯は酸から守られており、いったん溶け出した歯のカルシウム分が唾液から歯に戻る「再石灰化」は、わずか数分で進む。渡部氏は、「一時期、歯磨きは食後30分以上経ってからと言われていたが、むしろできるだけ速やかに磨くべき、というのが現在の歯科医師たちの認識だ」と述べた。
(ケアネット 鄭 優子)