亀田総合病院副院長
社会福祉法人太陽会顧問
小松 秀樹
2012年10月31日 MRIC by 医療ガバナンス学会
※本記事は、MRIC by 医療ガバナンス学会より許可をいただき、同学会のメールマガジンで配信された記事を転載しております。
●原徹文書
2012年10月9日、安房医師会理事会(会長、副会長以外に6名の理事が出席)において、原徹安房医師会副会長が「安房地域医療センター 無料低額診療施設としての位置付けに関して」と題する文書を配布した。原徹医師は、千葉県医師会副会長であり、日本医師会代議員でもある。医師会活動に長年取り組み、医師会内で地位を獲得してきた。理事会では、間宮聰会長と3名の理事が、原徹文書の論理に沿って、安房地域医療センターで計画されている無料低額診療に対する反対意見を述べた。
文書には署名が入っていなかった。私の問い合わせに対し、原副会長は、自分が健康福祉指導課に懸念を伝え、文書を書いたと答えた。文書中には、「安房医師会としての下記懸念がある事を(千葉県庁健康福祉部・健康福祉指導課に)お伝えした」とあり、懸念の主体が安房医師会であることが示されている。
安房地域医療センター 無料低額診療施設としての位置付けに関して
安房地域医療センターが無料低額診療を開始するとの情報を得た為、10月3日所管となる千葉県庁健康福祉部・健康福祉指導課から御意見を求めた。また安房医師会としては下記の懸念がある事をお伝えした。
1)地区医師会所属の会員施設の患者さんも生活に困窮されている方は少なくない状況下にあり、無償ないし低額での保険医療提供は患者誘導、集患行為に当たるのではないか?
2)社会福祉法人 太陽会が運営する病院であることは承知しているが、社会福祉法人の理事、評議員の構成が医師会組織や行政の意見を充分に反映する内容となっているのか?
また経営の実態は鉄蕉会が担っている様に見受けられますが、社会福祉法人の趣旨を徹底する事が可能なのか?
3)本制度に該当する患者さんを選定する会議などが公正に機能するのか?
4)生活保護者に対する医療行為等を勘案すると、保険医療費が増加する可能性が否めないのでは?
本制度を運用する施設は、これまで民医連系等が運営する施設など、受診者自身の選択がある程度伴う施設が主であったが安房地域医療センターの位置付け、役割を再度考えるべきではないか?
等々の疑問が生じます。
●無料低額診療を計画した理由
なぜ、社会福祉法人太陽会が無料低額診療を計画するに至ったのか。『厚生福祉』2012年7月20日号掲載の「日本社会の変化と医療・介護」で、小松俊平(現太陽会理事長補佐、鉄蕉会経営企画室員)が理由を述べている。
2010年度の国保被保険者3920万人の前年の平均所得は、1世帯当たり145万円、1人当たり83万7千円だった。
これに対して、2008年度の国保被保険者の前年の平均所得は、1世帯当たり168万円、1人当たり95万6千円だった。2010年度と比較すれば、リーマン・ショックの影響の深刻さをみてとることができる。
さらに遡って、1993年度の国保被保険者の前年の平均所得は、1世帯当たり239万円、1人当たり109万円だった。IMFの「World Economic Outlook Database」(2012年)によれば、2009年の日本の名目GDPは、1992年と比較して3.4%減少したにとどまる。これに対して、国保被保険者の平均所得は、1世帯当たり39%、1人当たり23%減少したことになる。」
国保被保険者は、平均世帯所得145万円の中から、平均保険料14万4千円、さらに受診時に自己負担分を支払っている。これと生活保護の基準を比較すれば、我が国セーフティ・ネットの矛盾と破綻の状況が浮かび上がってくる。
社会保障推進千葉県協議会が行った市町村への国民健康保険アンケートによれば、2010年の館山市の総世帯に占める国保加入世帯の割合は45.3%、国保加入世帯に占める前年度滞納世帯の割合は30.5%といずれも高率である。国民健康保険実態調査によれば、2010年の市町村国保被保険者1人当たりの課税標準額は、全国63万8094円に対し、館山市59万8316円である。館山市にある安房地域医療センターでは、医療・介護へのアクセスに困難を抱える患者をよく目にする。例えば、独居で移動手段がなく、交通費や医療費の自己負担分を嫌って病院に行かず、症状が顕著になってから救急搬送され、初診で入院となる患者がいる。あるいは、自宅に戻るのが困難であるにもかかわらず、資力の関係で療養病床、老人保健施設を利用できず、特別養護老人ホームの利用を待機している患者もいる。
事態は極めて複雑かつ困難で、問題の統一的解決は不可能である。国や地方自治体は、法規範の権威的決定とその執行というスタイルで作動する。公権力という強い力を持つがゆえに、手足を厳密に拘束せざるを得ない。複雑かつ困難な状況を的確に認知し、迅速かつ臨機応変に対処することを期待するのは無理である。
結局、現場にあるそれぞれの医療・介護の経営主体が、目を見開いて世界をよく認識し、認識した世界と自己を対照して、自らを変え続け、さらに社会を変え続けていくしかない。工夫に工夫を重ねた特殊な成功例を積み重ねることである。国や地方自治体の役割は、特殊な成功例が多く出るような環境を整えることである。現場に自由を与え、環境の公正さを保障しなければならない。
亀田グループでは、医療・介護の供給増のネックとなっている看護師の養成に全力を挙げると同時に、安房地域医療センターにおいて、社会福祉事業として医療を公定価格より安く提供すること(無料・低額診療事業)、従来の居宅での生活が困難になった地域の高齢者へ、安房地域医療センターの近隣で集合住宅、在宅医療、居宅介護を一体的に提供すること(安房セーフティ住宅構想)などを検討している。
無料低額診療は、経済的負担に病院が耐えられる範囲でしか実施できない。安房地域医療センターは破綻した医師会病院を、県と地元の自治体の依頼によって負債付きで引き受けたものである。未だに補助金なしでは赤字である。無料低額診療を実施するための資金は、寄付で集めたいと考えている。寄付集めの専門家とも相談を重ねている。
無料低額診療を行うにあたって3つの原則が重要だと考えている。第一に病院の存続が脅かされてはならない。第二に安房地域医療センターが担っている急性期医療の機能が損なわれてはならない。第三に受療行動にモラル・ハザードをもたらすことのないようにしなければならない。
モラル・ハザードは社会保障の根本に付きまとう問題である。アリストテレスの配分的正義「等しきものは等しく、不等なるものは不等に扱わるべし」が問われる。社会保障によって、負担する費用と受け取るサービス水準の逆転を許せば、働くことを忌避する風潮が生まれる。ごね得を許せば、ごね得が社会にはびこる。結果として市民の士気(morale)が損なわれ、あるいは社会の規律なり道徳なり(moral)が損なわれる。
無料低額診療を開始する前に申請、審査、承認を行う。虚偽の申請に対しては、詐欺罪による刑事告発、および減免された費用の返還を求める民事訴訟などができるようにしたいと考えている。さらに、外来診療については、一定期間で終了とし、入院診療については、原則として、退院許可をもって終了とする方針を考えている。
様々な制約の中で、ささやかな規模にしかならないかもしれないが、医療にアクセスできない生計困難者を救済したいというのが今回の試みである。
●安房10万人計画
実は、無料低額診療を推進すべきもう一つの理由がある。安房10万人計画である。首都圏の高齢者を招いて安房の人口を増やそうというものである。亀田グループでは、2012年3月以後、安房10万人計画について議論を重ねている。
首都圏では、団塊の世代の高齢化によって、今後20年間で介護需要が約3倍に増加する。団塊ジュニア世代の高齢化がこれに続くため、高齢者の絶対数は長期間にわたって大きく減少することはない。介護需要の増加の規模が余りに大きいため、首都圏だけの対応では、介護需要に応じることが難しいと考えられている。
一方で、安房3市1町(館山市、鴨川市、南房総市、鋸南町)では、高齢化率が首都圏よりはるかに高くなり、人口が急速に減少する。2030年には館山市、鴨川市、南房総市、鋸南町の高齢化率はそれぞれ41.1%、43.7%、51.2%、49.3%になると予想されている。高齢化率が50%を超える自治体は、限界自治体と呼ばれる。日本社会保障人口問題研究所の2008年の市町村別将来推計人口によれば、限界自治体数は、2010年10、2020年39、2030年105に達すると予想されている。限界自治体は、有効な対策がなければ自治体としての存続が難しくなる。
安房には利点がある。温暖であり、亀田総合病院という日本を代表する病院の一つがある。医療と介護施設、介護施設同士の連携が極めて良好である。
この利点を生かそうとするのが、安房10万人計画である。ミッションは以下の3点。
1. 首都圏の高齢者、要介護者に、安房で、楽しく穏やかに人生の終末期を過ごし、死を迎えてもらう。
2. 高齢者を介護する若者に、安房で、結婚し、子供を産み育ててもらう。
3. 安房を活性化することで、住民に職を提供する。
さまざまな経営主体に参加を呼び掛けたいと思っている。亀田グループで利益と手柄を独占しない。参加した施設には、医療提供で協力する。異なる立場の関係者が参加するNPOを設立し、これが全体のルールの設定や改定など調整業務を担うようにしたい。亀田グループにとっての最大のメリットは、この地域の人口を増やすことである。
政府も似たようなアイデアを進めようとしている。2012年10月8日の日本経済新聞電子版によると、厚労省などが、高齢者の地方移住促進のための仕組みを検討しているという。送り出す自治体が費用を負担する。来年度、東京都杉並区と静岡県南伊豆町が協定を結ぶことになっている。
安房10万人計画を推進するのに、地元の生計困難者が医療にアクセスできないのを放置していたのでは、地元の住民の共感が得られない。安房で医療、福祉が充実していることを示さないと、首都圏の高齢者に信頼されない。
(その2/2へ続く)