長崎大学 医歯薬学総合研究科教授 池田正行氏
池田正行氏のご厚意により、今回の東北地方太平洋沖地震について書かれた「ヨウ化カリウムへの信仰そして30km圏内のエビデンス」を転載させていただきます。
ヨウ化カリウムへの信仰
わが国で既承認のヨウ化カリウム製剤の効能効果は、1.甲状腺腫 (甲状腺機能亢進症を伴うもの)、2.慢性気管支炎,喘息に伴う喀痰喀出困難、3.第三期梅毒 だけです。それ以外はすべて適応外使用になります。それをあたかも効能効果があるように謳うのは、エビデンスに基づく医療ではなく、信仰に過ぎません。教会でいただくパンのようなものです。人はヨウ化カリウムのみにて生くるにあらず ですから、一緒に葡萄酒も配ったらどうかと思うのですが、そういう話は寡聞にして耳にしたことがありません。
そう言うと、必ず「海外データがあるはずだ」という、わけしり顔の連中が出てきます。そもそも、「あるはずだ」という言葉が当事者意識ゼロ、ただの評論家に過ぎないことを示しています。自分で調べればすぐわかることなのに、調べようともしないリテラシーの低さよ。結局、PMDAにおんぶにだっこなのです。
原子炉事故に伴う被曝のリスク評価と、そのリスク低減のための介入の有効性・安全性の評価の両方について、ヨード131を例にとって、エビデンスレベルの観点から調べてみました。そうすると、ツッコミどころ満載の、如何に頼りないものにならざるを得ないかがわかりました。
1.リスク評価の難しさ
介入試験はもちろんできません。さらに、曝露を事前に予想できませんから、(前向き)コホート研究も絶対できない。となると、観察研究の中でも、エビデンスレベルのより低い研究とならざるを得ません。
広島・長崎の被曝者登録研究は、大規模コホート研究という題名ですが、いわゆる「後ろ向きコホート」ですし、被曝線量があくまで推定なので、そのエビデンスレベルの判断も慎重にしなければなりません。さらに、剖検から死亡・罹患・健診・と、モニタすべきイベントの種類とモニタリング方法の多様性だけでも、この種の観察研究の困難さがよくわかります。
ベラルーシやウクライナよりも公衆衛生インフラが発達しているであろう日本でもこの程度なのです。ましてやチェルノブイリ事故による甲状腺癌のリスク上昇など、一体どうやって正確に評価できるというのでしょう。研究のメッカであるはずの長崎大学原研自身がdetection biasの影響を排除できず
「わからない」と言っているぐらいなのに。
「甲状腺がんの「増加」の理由については、事故後、甲状腺に注目してスクリーニング(精査)が行われるようになったため、今まで見つからなかった潜在がんや微小がんも含めてその発見頻度が高まったという見解もあります。事実、事故前の正確な疫学データはなく、すぐには、放射線障害によってがんが増えたとは言い切れません」。ちなみに、このページには
「チェルノブイリ周辺では他の放射線障害の代表疾患である白血病などは増加していません」とあります。
2.リスク低減のための介入の有効性・安全性の評価の難しさ
介入の標的であるリスクの評価自体が上記のようなエビデンスレベルですから、さらにそのリスク低減のための介入の有効性・安全性の正確な評価はほぼ不可能です。
・そもそも日本のようなヨード過剰摂取の国で
・何歳以上?何歳未満の子ども?に
・一体いつからいつまで(そもそもその、服用開始のきっかけとなるイベントさえ、何を基準にしたらいいのかわからない)
・どのような用法用量で、ヨウ化カリウムを飲めば
・飲まない場合(ただしヨードたっぷりのふだんの食事はそのまま)と比べて、甲状腺癌のリスクが、どの程度低減できるのか?
世界中誰一人として、この問いに明確に答えられないことは、EBMをちょっとかじっただけですぐわかります。PMDAの治験相談に耐えうるプロトコールが作れないこともすぐわかります。
以上、EBMの一番の醍醐味は、「わからない」ということが「わかる」ことだと改めて実感できます。
30km圏内のエビデンス
ハルマゲドン妄想を煽るのならば、24万人が死んだ広島、14万人が死んだ長崎といった、ハルマゲドンの実例を挙げればいいものを、引用しないのはなぜか?それは、実際のハルマゲドンでは、人々は決してパニックにならないからです。だから話として「つまらない」。だから引用しない。
長崎にプルトニウム核爆弾が落ちてからも、爆心地から半径30km以内を立ち入り禁止となることはありませんでした。原爆が落ちる前も落ちた後も、長崎大学医学部は150年前からずっと、Ground zeroから歩いて5分足らずの(爆心地公園は、毎日の私の通勤経路です)、この長崎坂本の地に留まっています。
「プルトニウム粉塵は密度が高いため、大気中でも水中でも沈降速度が大きくあまり遠くへは広がらない。チェルノブイリ原発事故時のプルトニウムの環境への規制値(3.7GBq/km2)を超えた飛散範囲は30km以内であり、セシウム、ヨウ素などがヨーロッパにまで拡散したのと大きな違いがある」(
プルトニウムの体内動態について)
長崎こそ、30km以内を立ち入り禁止区域にする選択肢があったのでしょうが、そんなことはおかまいなしに、65年経ってしまいました。でもプルトニウム239の半減期は2万4000年(α崩壊)だそうですから、まだ十分間に合う?いいや、α線だから、「臭いものに蓋」でこれから何万年もこのままでいけばいい?
プルトニウム239の半減期は2万4000年ですが、1945年8月9日から今日に至るまで、地元はもちろん、県外でも、長崎県産の農産物、水産物、畜産物、乳製品がプルトニウム239の汚染ゆえに風評被害を受け、差別されたことはありません。400年の歴史を持ち、日本全国の生産量の6割を占めると言われる牡蠣を含めて広島県産の農水畜産物も同様です。
さらに、国際連合の常任理事国の国々は、広島、長崎では飽きたらずに、核実験によって、3桁に上る回数の核爆発を行い、膨大な量の放射性物質を地球上にばらまきました。Wikipediaには、たった1回の地下核実験の失敗でも、スリーマイル島原子力発電所で発生した事故の2,000倍の量が漏れたとの記載あります。1963年以前に、地上で核実験行われていた時代には、一体どれだけの放射性物質が大気中にばらまかれていたことか。
セシウム137の体内での経年変化の図は非常に興味深いものです。もし、これが日本人だとしても、セシウム137は国・地域を越えて広がりますし、日本での核実験は広島・長崎の2回だけですから、1964年の高値は広島・長崎以降の、国際連合常任理事国の核実験によるものでしょう。特に1963年までの大気圏内核実験が、チェルノブイリよりもはるかに深刻な地球の汚染をきたしていたことを、この図は如実に物語っていると思います。
以上、
狂牛病病原体で汚染されたビーフバーガーをたくさん食べていた経験が、人間の居住地域の中では今日でも史上最悪のプルトニウム(半減期2万4000年!何百回でも言ってやるぜ!)汚染地域に来ても大いに役立っていること、危機がリテラシーを育てることが実感できました。