東京大学大学院人文社会系研究科(宗教学宗教史学)
教授 島薗 進
2012年9月28日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行
※本記事は、MRIC by 医療ガバナンス学会より許可をいただき、同学会のメールマガジンで配信された記事を転載しております。
福島県の県民健康管理調査は地元の住民から多くの疑念をもたれている。医師・医療従事者と多くの患者・受診者の間に。信頼に根ざした関係が成り立っていない。これでは医療の基盤が崩れており問題が大きい。甲状腺の検査についてはメディアで取り上げられ、ある程度知られているが、それだけではない。
まず「基本調査」についての疑問を述べよう。概要については福島県県民健康管理調査のホームページを見ていただきたい。
http://wwwcms.pref.fukushima.jp/pcp_portal/PortalServlet?DISPLAY_ID=DIRECT&NEXT_DISPLAY_ID=U000004&CONTENTS_ID=28985
「基本調査」は全県民を対象としたもので「外部被ばく線量推計」とも記されている。そして、「原発事故に関して、空間線量が最も高かった時期(震災後7月11日までの4ヶ月間)における外部被ばく線量を県民一人一人の行動記録を基に推計、把握し、将来にわたる県民の健康の維持、増進につなげていくことを目的に実施している」と述べられている。
だが、2012年3月31日の段階で、回収率は21.9%とたいへん低い。なぜ、低いのか。これに答えることが健康維持・増進にどう結びつくのかよく分からないからだろう。では、この調査の目的は何だろうか。ページの下の方に「調査の目的」についての動画があり、その内容はA=お母さんとB=説明者のコントだ。
B:今回の原発事故はまさに未曾有の出来事でしたが、この調査は県が今後行っていく健康管理のスタート・基礎になるんです。この調査の中に行動記録というのがあるんですが、これが今現在、皆さまが外から浴びた被ばく線量を知るための唯一のデータになるんです。
A:これに記入して提出すれば、被ばく線量の推定をしてもらえて、これから先長いこと健康を見守ってもらえるのね。記入するのは面倒だと思ったけど、そんなに大事なものならしっかり書かかなくっちゃ。
B:もし回答しなくても、皆さまの不利益になるものではありません。
A:でも、記入する方がしないよりもいいことが多いわよね。自分のためはもちろんだけど、小さい子どものためにも、家族の安心のためにも必要ね。ぜひ書かせていただきます。
この対話(コント)で何が目的だか分かるだろうか。なぜ、「健康管理のスタート・基礎」になるのか。「この程度の被ばくでは影響は出ない」という主旨のことが繰り返し書かれている。それなら調査は不要ではないか。「家族の安心のためにも」とある。調査結果が送られてくると、線量が少なかったことが分かって「安心」するということだろう。安心するほど少ないなら、どうして「健康管理のスタート・基礎」であり、「そんなに大事」なのだろうか。
「健康を見守る」というが、健康にあまり影響がないはずのデータを「基本調査」とすることがどうして「大事」なのか。そもそも記入しなくても「皆さまの不利益になるものではありません」と言いながら、「でも、記入する方がしないよりもいいことが多いわよね」というのもよく分からない。実際、これを書き込むことでどんな利益があるのかよく分からない。線量が低いということなら、放射線との因果関係は否定されてしまうわけだから、被ばくによる被害をめぐる訴訟が起こったときには不利な材料になってしまうかもしれないではないか。
これは首相官邸ホームページの「原子力災害専門グループからのコメント」 http://www.kantei.go.jp/saigai/senmonka.html の第15回(2011年9月13日)と第26回(2012年3月14日)に掲載されている山下俊一氏と神谷研二氏の共同執筆の文章から得られる印象とも一致する。
前者ではこの調査は「福島におけるいわば『いのちの見守り』ともいえる大事業の一環」だと述べている。「いのちの見守り」という標語はあちこちに掲げられているものだが、それは県民各自の健康維持・増進にどう役立つのか。これについてはまったく述べられていない。
後者には「今後も、この基本調査から得られた線量推定値を健康管理に活かすと共に、問診票記入の支援などをさらに充実させて、検診による健康管理を推進し、多くの方々の不安解消に努めていきたいと考えています」とある。これを見ると「不安解消」という目的があることは分かる。だが、放射線量を知るための問診票と個々人の健康維持のための検診とがどう関わるのかはよく分からない。もし、かつての行動記録を細かく調べるようなことが必要なほど、放射線の影響の微妙な違いが重要だというのなら、それが分かるようにしてほしいと感じるのではないだろうか。
福島県や福島医大は、「基本調査」の目的は疫学調査にあることを明示すべきだ。その踏査地震は個々人の健康維持ではなく、数量的なデータの取得に主たる目的があり、それを診療に生かすことができるのはだいぶ先で、場合によっては数十年先であるかもしれないことも明らかにすべきではないか。その上で、被調査者個々人にどのような利益があるのか、あるいはないのか、不利益になる可能性はないのか、説明すべきだろう。その場合、そもそも放射線の影響がないということを示し不安をなくしたいということが目的であるのであれば、それはできるだけ補償を減らしたい側の利益になるとしても、放射線の健康影響を懸念する被調査者の利益に反する可能性があることをも自覚すべきだろう。「いのちの見守り」という標語ではぐらかすのではますます不信が増幅してしまうばかりである。