診察室を出よ

提供元:MRIC by 医療ガバナンス学会

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公開日:2012/10/10

 

南相馬市立総合病院・神経内科
小鷹 昌明

2012年10月9日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行

※本記事は、MRIC by 医療ガバナンス学会より許可をいただき、同学会のメールマガジンで配信された記事を転載しております。

初めて経験した福島県浜通りの夏は、想像していたより暑かった。私の故郷の埼玉県嵐山町(熊谷市の近く)は、もっと暑かったであろうが、この南相馬の潮風は、身体にまとわりつくような湿り気を帯び、海辺の街のじっとり感というのも、独特な不快さがあった。結局、日本はどこに行っても蒸し暑いのではないかという気がした。
そんな夏の間、私は休暇も取らずに診療に明け暮れ、「野馬追い」を観戦し、市民とのラジオ体操に参加し、週末はジョギングやトレッキングに出かけ、来訪するメディア関係や医療関係、友人たちに被災地を案内し、いくつもの会合や打ち合わせに出席していた。

春と夏とを、この被災地で過ごしたわけだが、そこで感じたことは、「毎日が実験的・創造的だった」と言えば抽象的な言葉になってしまうが、つまり、世の中の仕組みを知った。「訂正と調整を繰り返す中でしか、実態は見えてこない」ということに気が付いた。
まるで、切れ目のたくさん入った金属板がズレてしまうと、突起の付いた円筒形のシリンダーとうまく接触されなくなり、美しいメロディーを奏でなくなってしまうオルゴールが、微調整を繰り返すことで、やがてまた元の音色に戻るかのように。
私は、ひとりの医師として、エッセイストとして、これまでさまざまな活動、発信をしてきたわけだが、ここへきて半年あまりの間に、身をもって学んだ事実がひとつだけある。
それは、「診察室からだけでは医療を変えられない」ということであった。

そのことに気付くや否や、私はとにかく、時間さえあれば街に出ることを心がけた。街に存在するさまざまな職種の方と接触を試みた。
その結果、政治や行政、NPO法人の方たちとの交流により、県外から研究者や識者を呼ぶことができたし、ボランティア団体との交流により、広く市民に啓蒙活動ができるようになったし、労働者共同組合との交流により、ヘルパー養成研修の講師を任されることになったし、ラジオ局のスタッフとの交流により、実習や研修に来る学生や研修医を番組出演させられそうだし、企業マネージャーとの交流により、電気自動車を往診車として無償で借りられたし、新聞や雑誌記者との交流により、南相馬市を広く伝えてもらえるようになったし、原発作業員との交流により、事故現場の真実を知ることができたし、商店街振興組合の理事長との交流により、来年は「野馬追い」に出られそうだし、そして、何よりも神経難病の患者を往診できるようになった。

各方面からも取材や講演の依頼が、ちょくちょく来るようになった。最近では、「認知症にならない暮らし」や「南相馬市における神経難病患者の現状」などと銘打った講話を行った。
それはそれで、私の行動が市民に少しずつ浸透してきた結果として、喜ぶべきことなのかもしれない。良く言えば「信頼されてきた」のかもしれない。しかし、ここにくるまでには、多くの紆余曲折があった。
多くの支援者は、行けば必ずやることがあって、周囲からも歓迎され、やり甲斐を持てると思っているかもしれない。当たり前だが、震災から1年半が過ぎたこの時期においては、“こと”はそう単純なものではない。
要するに、被災地のニーズが何なのかということを、本当にじっくり考えなければならない。その行動は、市民や患者にどう役に立つのか?
 行為自体は悪いことではないが、本当に望まれていることなのか?
 単なる自己満足ではないのか?

私たちにできることは、与えられた手持ちの資源をできうる限り応用して、そこで最良のパフォーマンスを発揮すること、それだけである。
敢えて言わせていただくなら、「消費期限を吟味した残りの食材で、いかに最良の料理を作るか」ということである。そこに必要なのは、物事を重層的、かつ横断的にスキャンできる能力である。
私たちというか、一般的に人は、すでに与えられたものの中でしか生きられない。生まれる国や時代、どんな両親の子供に産まれるか、身体能力や知的能力の基本になる部分など、すべての事象は、自分で予め設定することはできない。そこに降り立つという形でしか、この世には“生”を受けられない。
それと同じように、被災地に来た私たちも、そこに投じられただけである。
しかしながら、そういうことを自覚していたとしても、私のような外部支援者は、即効性・実効性を、つい期待してしまう。震災後の参入者は、早く結果を得たいと願っているからである。
「震災中は、こうしていた」ということが、いまだ挨拶代わりというか、名刺代わりというか、そういう機能を果たしているこの土地において、私たちはどのような振る舞いをみせたらいいのであろうか。

「あと20年経ったらこの街はどうなるだろうか?
 この県では、放射性物質汚染土の仮置き場さえ決められない」というようなつぶやきを、ときどき耳にする。
日本全体にび漫していることかもしれないが、今の人たちにみられる姿は、「根強い徒労感と、捉えようのない不機嫌」である。風評が解釈に先行し、感覚が認識に先行し、批評が創造に先行している。
先の見えない不安と、明らかに想像できる憂慮とで、混迷している。明確な理念のある疲労と、明確な理念のない苛立ちとで、人々の気持ちは揺れている。このしんどい二律背反は、私たち日本人にとって、これから大きな意味を持っていくのではあるまいか。
ただ言えることは、疲れ果て、不機嫌な人たちが技術的なブレークスルーや、時代の閉塞を切り開くようなイノベーションを果たすようなことは、ほとんどあり得ない。

だから、世の中の構造をよく認識することである。
結局のところ、この街は良い意味でも、悪い意味でも世界中から注目されることになった。従来から住んでいる人、新たに居を構えた人、一時的に支援に入った人、そういう混沌とした人たちとで、新たな街を創っていく必要がある。
「団結して何かに耐える」とか、「協力して何かと闘う」とかいう時期は過ぎ、「被爆した人と、してない人」、「補償を受けられる人と、受けられない人」、「仕事のある人と、ない人」、「持ち家のある人と、ない人」のような、「差別化されてきた問題をどう調整するか」とか、「競合する事態をどうまとめるか」というような作業段階に入っている。復興のための中長期的なプランの土台作りにきている。

街の復興には、これからも長い長い年月を要するであろう。この街が、一気呵成に快方に向かうということは、残念ながらないようだ。丁寧な修復には、途方もないほどの人海戦術を繰り返していくしかなく、僅かなことでも、少しずつ“見える化”していくことである。
「放射線量がこれだけ減りました」とか、「若い人がこれだけ帰ってきました」とか、「介護士をこれだけ増やしました」とか、そういうことである。

リーダーというとチープな言葉に聞こえるが、そのためには、“インデペンデントな佇まい”というような立ち位置を有する人材が必要なような気がする。要するに“形にできる人”、“クラフト的な人”である。
そして、さらに重要なことは、そういう人が有効に機能する環境作りである。
豊かで自然な創造的才能を持っている創作者が、時間をかけてゆっくりと自分の創作システムの足元を掘り下げていけるような、そんな環境である。
「倒されずに生き残る」ということだけを念頭に置いて、あるいは、「ただ単に見映えのいいことだけを考えて生きていかなければならない」というような環境に、この街をするべきではない。

支援や救済という行動そのもの自体に、何か違いがあるわけではない。場所によって差異があるわけでもない。
ただ、資源によって若干の格差はあるものの、多くの支援行為の差異は、「人為的な環境の提供のされ方次第だ」と言ってもいい。そして、その差異を作り出す要因は、言うまでもないことだが、それらの環境を作り出す“周囲の人間たちの意識”そのものの差である。

被災地であるこの街には、“うつ”傾向の強い人たちがたくさんいる。それを支援することは、並大抵なことではない。“うつ病”をタブー視しない社会を作り出すためには、そうした病気があるということを広く浸透させる必要がある。
予防や治療対策として、“うつ病”という疾患概念を全面的に掲げて啓蒙するか、疾患概念のことはなるべくオモテに出さないで、やんわりと教化していくかで、やり方が違う。
外部支援者は、疾患を全面的に打ち出していき、その有効性を実感として得たいと願うが、内部にいた者は身構えてしまい、そうした病的意識は乏しい。そこに、考え方のズレというか、解釈の仕方というか、要は、文化やメンタリティに対する認識の違いが存在する。

だから、被災地支援者には、“個”の確立が必要である。
「自分にやれることを地道にやっていくだけです」という考えも悪くはないし、そう言っていた方が軋轢を生まないが、個人が個人として生きていくこと、自分が何をしたくて、何ができるのか、そして、その存在基盤を世の中に強く指し示すこと、そのことが理解されようがされまいが、ある一定の指針を掲げていくこと、それが、この街で外部支援者として生きていくことの、ひとつの意義だと思う。
半年間という短い期間かもしれないし、考察も甘いし、間違っているかもしれないが、私はそう思う。

この半年で、私は、良く言えばタフになったということかもしれないが、ともすると、自分の中の感受性が鈍感になってきた可能性がある。
被災地での診療や復興支援はとてもスリリングで、非日常的で、イマジネイティブな行為である。たとえ普段は、私のように退屈きわまりない人間だとしても、ここで、そういうことに取り組んでいるだけで、“何か特殊な人”になることができる。ただ、その“何か特殊な人”が、何かで行動しようとすると、どういう訳か、何もできないか、ものすごく月並みなことしかできない。
でも、だからこそ、診察室を出て、街に出て、自分の目鼻を利かせて行動していくしかないような気がする。
私は、良くも悪くも、この半年間で憑きものが剥がれ、トラウマが克復され、偽善から抜け出られたような気がする。これからは、自分の意思を信じて、さらに行動の幅を広げ、やりたいことを発展させていくつもりである。