「コロナ禍、僕がいるべき場所は医療現場でも地方行政でもなく、国会だった」衆議院議員・松本 尚氏インタビュー(前編)

提供元:ケアネット

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公開日:2021/12/21

 

 新型コロナウイルス感染症が社会を覆い尽くしたこの2年。世の中の常識や既定路線にも大小の揺らぎが生じ、来し方行く末を考えた人は少なくないだろう。今秋の衆議院選挙で、千葉県の小選挙区において初出馬ながら当選を果たした松本 尚氏(59歳)は、救急医療(外傷外科)専門医であり、国内のフライトドクターの第一人者としてその名前を知る人も多いはずだ。34年の医師のキャリアを置き、新人代議士として再出発を切った松本氏に、キャリア転換に至ったいきさつや、医療界と政界それぞれに対する思いや提言について伺った。

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松本 尚氏「ここにいることはとても不思議。半年前まで僕は1人の医師だったのだから」

 
――医師としてコロナ対応にも追われたと思うが、そんな中で代議士へのキャリア転換を果たした。このタイミングは偶然、それとも必然?

 ……(しばし考え)やはり、コロナ禍がなかったら(衆院選への出馬は)していなかったかもしれない。振り返ってみてそう思う。僕の活動を支援してくれた旧知の医師が、今回の選挙後に言ってくれたことが印象的だった。「20年前、松本先生が日本医科大学北総病院に赴任したこと、その後、北総にドクターヘリが導入されたこと、地域の救急医療に従事してきた活動のすべては、ここが到達点だったのではないか」という内容だった。自分はあくまでその場その場で、与えられた仕事を一生懸命やってきただけなのだけれど、第三者から見た僕の20年間というのは、そのような総括もできるのかと思った。確かに、選挙区の中にもドクターヘリで治療された経験があるという人も結構いて、選挙活動の時に、家族や友人、場合によってはご自身が運ばれたと言う人もいた。直接伝えてくださった方だけでも本当にたくさん。あるいはドクターヘリ普及の過程では、消防の方とも協力してやってきた。そういった方々の応援も心強かった。もちろん、普段から北総病院に通院している人が、そこの医師だからという理由で応援してくれる人も少なくなかった。そうした20年間の積み重ねの上に、今回のコロナ禍があり、その中で心を決めたという側面は確かにあるなと自身でも思えた。したがって、(転身の)タイミングとしては偶然とも言え、必然とも言える。

 決断を後押しした1つとして、新型コロナ感染症の対応時、千葉県庁にいたことが大きい。ある意味、それもまた偶然だったかもしれないが、行政側に身を置いてコロナ対策を俯瞰的立場で見た時に、あまりに課題が多いことを痛感したからだ。もっとも、選挙区のポストが空いたことも僕にとっては大きな偶然の1つ。

 しかし、考えてみれば今ここにいることはとても不思議だ。半年前まで、僕は1人の医師だったのだから。

――さかのぼるが、そもそも政治家を志すことになった具体的な転機は?

 7~8年くらい前だろうか。もともと僕は保守的な思想信条を持っていたが、民主党が政権交代した時(2009~2012年)に、政治に対する関心を強く持たざるを得なかった。あの当時、日本全体がそうだったように、僕自身もある種の政治が変わる高揚感、何か大きく世の中が変わるんじゃないかという期待感があった。新政権とうまくつながることで、世の中の変革をより体感できるのではないかという思いで、ツテをたどって当時の文科副大臣に会いに行ったこともあった。しかし、現実は何も変わらなかった。その時点で、改めて自分の主義主張というものを見つめ直した。さらには、国をもっと良くするためにどうすべきなのかを考える時に差し掛かっていることも実感した。そろそろ僕らがそれを考える世代だと。

 この時期、僕自身はテレビの医療監修など、臨床以外に活動の幅を広げ始めたころだったように記憶している。代議士になった自分が言うのもなんだが、議員の中には、与野党問わず資質を疑いたくなるような人物も確かにいる。発言内容が稚拙だったり、当選回数が多いというだけで閣僚になったりするような議員も少なくないことがよくわかる。当時の僕は、そういった議員の姿をさまざまなメディアで見るにつけ、自分のほうがよほど真剣に国のことを考え、実行できるのではないかと思った。しかも自分と同じ世代だとしたら、なおさらだ。さらに、医学の領域で地道にやってきたことが評価されるようになってくると、それを政策に生かすとしたらどうすべきかという視点でも考えるようになった。自分が積み上げてきた経験を活かせば、ここ(国政)だったらもっと良い仕事ができるのではと心密かに思うようになった。したがって、二度の政権交代が政治への関心を持つ大きなきっかけの1つだったかもしれない。

 そのころ、千葉の自民党県連で公募があった。これだと思い立ち、大学の卒業証明書や戸籍謄本を取り寄せ、準備を進めた。公募に必要な書類の中に、「政治について」というテーマで2,000文字の論文があった。もちろん書き上げていざ挑戦、と思ったのだが……これが1文字も書けなかった。ネットや新聞の文言を継ぎ接ぎすれば、何がしかの文章を作ることはできる。しかしそれは、当然ながら中身のない薄っぺらなものでしかない。だからと言って、自分の言葉はなかなか出て来ない。それが、7~8年前の苦い経験。

松本 尚氏「政策立案側と立法側の乖離。そこに、医師であり議員である僕がいれば」

 
――歳月を経て、再びの挑戦となった今回は違った。

 奇しくも、レポートのテーマは前回と同じだったが、今度はスムーズに書き上げることができた。この数年間、もちろんたくさんの勉強をした。多くの本を読み、歴史を学び、一般メディアにも寄稿した。医学論文にとどまらず、さまざまな文章を意識して執筆するよう心掛けてきた。それらも自身の訓練になっていたのだろう(ホームページ「論説」を参照)。公募論文を書き終えたところで、これは行けるという確信が持てた。それくらい、ある意味で世の中のタイミングと自分の機が熟すタイミングがうまく重なったのだろうと思う。

――転身を決める大きな理由となった行政側でのコロナ対応の経験についても伺いたい。

 今回、コロナを巡るさまざまな地方行政の問題、あるいは国の政策としてのコロナ対策の問題があることが、千葉県庁で対策に携わった目線から考えるところが多かった。あえて厳しいことを言うが、政府には大局に立った絵も描けていなかったし、そもそも、初っ端からリスクコミュニケーションでつまずいていると感じていた。その場しのぎの対策に追われるものだから、国民は一体誰の言うことを聞いたらいいのかわからないという状況に陥った。もう少しきちんとした危機管理ができていないとダメではないかと、早い段階から旧知の議員にも個人的には伝えていた。一体この国はどうなっているのかと思った時、少なくとも県庁にいてもダメだった。ならば医療現場にいる場合かというと、それも違った。現場は、とにかく懸命にコロナ診療をこなしていくことで精いっぱい。その中に入って一緒にやることもできるが、それが僕の役目なのかというと、そうじゃない。当時、千葉県庁の対策室で災害医療コーディネーターとしての役割を与えられた僕は、全体を見ながらコントロールすることだと自覚していたが、実質は機能不全状態だった。その経験から、もっと上に行くしかないとその時に痛感した。


 あれは第1波のころだっただろうか。のちの第5波などに比べたら、“さざ波”程度だったと今なら思えるが、コロナ患者が一気に増えて病床が足りず、第5波の時と同じくらい切実な状況だった。感染者数がピーク時は、患者のトリアージをせざるを得なかった。トリアージの判断基準になるスコアを決め、その点数に沿って厳密に対応していた。保健所からは、「状況は理解できるが、それでも何とか(入院できるように)してほしい」という訴えがあったが、「こちらもルールに則ってやっている」と断るしかない。はじめは県庁職員が対応をしていたが、医療者でもないのに矢面に立たせているのは申し訳ないと思い、「対策室でやっていることの最終的なすべての責任は僕が取るので、断る際も怖がらずに対応に当たってほしい」と伝えた。

 当時は状況が状況だけに気も張っていて、その対応が精いっぱいだったので腹を括ってやっていた。しかし、後になって冷静になって考えると、本当はそうじゃなかったのではないかと思うようになった。災害時のトリアージそれ自体は間違っていない。そう理屈ではわかっているものの、本当は医療を受けたい人が受けられないというのは、やはり間違っているという思いが強くなった。誰もが初めて直面した新型コロナウイルス感染症だったが、緊急事態宣言の出し方ひとつとっても、もっと違うやり方があったのではないか、もっと上手にルールが作れなかったのかという思いに至った。ならば何をすべきか。それは、次のパンデミックに備えたルールづくりだろう。

 コロナ対応で頑張っていたのは当然、医療者も同様だ。県庁でコロナ対策の専門部会メンバーとの会議で、医療者側からの意見はとても重要で、コーディネーター役の僕としても首肯する場面が多かったが、それを政策まで落とし込む術がない。なぜなら、その落とし込みをする側に医師がいないから。医師と政策側には、どうしても埋めがたい乖離がある。「現場はこうだ」と言っても「ルールはこうですから」の平行線。やはり、そこをうまく橋渡しする役目の人が不可欠だと痛感した。千葉県庁では、医師である僕にその役目を任せてほしかったが、残念ながらそうはならなかった。そして恐らく、国でも同じ問題に直面しているのではないかというのは、容易に想像できた。

 政策立案側と立法側の間の乖離。そこに、医師であり議員である僕がいれば、両者の事情を理解しながら仕事ができるのではないかと考えた。ここがもしかしたら、僕が方向転換を決めた大きなきっかけだったではないかと、今振り返ってみてそう思う。

後編に続く>

(聞き手・構成:ケアネット 鄭 優子、金沢 浩子)